ふるさと足尾の歴史
昔の学校
今年の3・4年生の総合的な学習の時間には、足尾小の歴史と共に、旧足尾町の閉校した学校などについても調べています。図書室には、「足尾小学校に生きている学校」として、小滝小(昭和30年 原小分校に)・横根山分校(昭和49年廃止)・神子内小(昭和59年休校)・原小(平成8年閉校)・本山小(平成17年閉校)・足尾小の旧校舎(平成18年まで)の写真が飾ってあります。( )の中は写真の説明に書かれている内容です。時々、本山小や原小と書かれてある図書や道具を目にすることがあります。足尾小の歴史と共に、それぞれの学校について調べたことを、このホームページにも掲載したいと考えています。
創立記念日の記念品(缶バッジ)
足尾小学校の沿革によると、「明治6年8月15日、本妙寺を借用し足尾学舎を創立する」と書かれています。本妙寺さんは、今でも学校の隣にあります。創立記念日は夏休み中でしたので、今年は始業式に創立記念集会を実施しました。足尾小学校は、今年で148周年になります。その記念として、缶バッジを作成して、子供たちに創立記念集会の日に配付しました。ある団体からいただいた研究費で作成し、足尾小学校で学んだ記念品としてもらいたいと思っています。
海抜621メートル
足尾小の松の木のそばに平成元年度に立てられた碑があります。そこには、海抜621メートル、北緯36度37分58秒、東経139度26分48秒と記録されています。先日、5・6年生と校外学習で通洞駅に行ったときに、海抜636メートルと書かれている木札を見つけました。通洞駅は足尾小からちょっと高い場所にあります。
日光市のホームページで調べると、「日光市の地形は標高200メートル程度の平坦地域から2000メートルを超す山岳地域まで大きな起伏がある」と書かれています。
写真コーナー
ホールのNIEコーナーの横に、「写真コーナー」を作り、学校の古い写真を掲示しています。先日の全校集会や3・4年生の総合の時間に使った写真です。昨日の清掃ボランティアの皆様も懐かしそうに写真を御覧になっていました。
足尾小学校は創立148年
足尾小学校と足尾中学校は、来年度の令和4年4月から小学校と中学校が併設され、「足尾小中学校」となることが決まっています。足尾小の校舎に併設されるので、足尾小がなくなるわけではありません。しかし、小学校単独としては最後の年になります。
足尾小学校の歴史については、「創立120周年記念誌」に詳しく描かれています。「明治6年8月15日に本妙寺を借用して足尾学校を創立する。」と書かれています。今年で、創立148年になります。
まず、明日の全校集会で、足尾小学校の年表・写真・記念誌などを資料に、足尾小学校の歴史を話す予定です。今日は、その資料を集めてみました。今年は、足尾小学校の歴史を子供たちと一緒に調べていきます。
現在の校舎の前の校舎「祝122周年 足尾小 1995」と校庭に人文字などで書かれている航空写真がありました。
足尾小学校の年表発見!
今、学校では、清掃強化週間です。校長室の棚の上の方を掃除していたら、年表を見つけました。「本校の沿革」と書かれ、明治6年から昭和62年までの出来事や児童数が書かれていました。来年度は、総合的な学習の時間を活用して学校の歴史を調べたいと思っていたので、ちょうどよい資料が出てきました。
足尾焼
足尾小学校には、「足尾焼」と表示された作品が2種類展示されています。埴輪と龍の形をした貯金箱です。
「足尾町閉町記念 足尾博物誌」に「あしお名品・特産 アラカルト」のページに「足尾焼」が紹介されています。
足尾焼 銅採鉱の副産物「スライム」の多目的利用の道を探すところから誕生した足尾焼は、町の特産品として開発された手造りのぬくもりを感じさせる素朴な焼物です。各窯元では陶芸教室も行っているので、ぜひ足尾焼を体験してみてください。
地名の由来(赤沢)
足尾小学校の住所は日光市足尾町「赤沢」です。地名の由来を「銅山の町 足尾を歩く」(発行 わたらせ川協会 発売 随想舎 2002年)で調べてみました。
「赤沢」
赤沢は、足尾宿の中枢で、中世末の銅山発見から膨張し、近代には町の中心商業地となりした。渡良瀬川の河岸段丘の最も広い土地で、川が大きく湾曲する所が特に広く、別称前原と呼ばれているそうです。
赤沢の地名は、銅鉱床から流れる水からきたといわれているそうです。学校の横には「渋川」が流れています。(中略)明治10年に銅山の経営が古河になってから、急速な発展を遂げ、この地に役場、警察署、郵便局などや商店ができて町の中心的機能を備えるようになりました。足尾小学校は、明治6年に学校に隣接する「本妙寺」を借用して創立されました。
学校の周辺には、銀行・郵便局・商店などがあります。
わたらせ渓谷鐵道
足尾地域には、わたらせ渓谷鐵道の駅が4つあります。学校の近くには通洞駅や足尾駅があります。12月から2月末まで各駅がイルミネーションで開催されています。学校から歩いて行ける通洞駅では、グッズ(鉄印帳・お守りや・スク・手ぬぐい・絵はがき等)を売っています。
わたらせ渓谷鐵道の歴史(わたらせ渓谷鐵道株式会社のホームページより)
わたらせ渓谷鐵道は、群馬県桐生市から栃木県日光市足尾町を結ぶ鉄道で、足尾町にあった足尾銅山と深いつながりがあります。明治時代の初めまで、産出した銅や鉱山で使用する材料の運搬は馬や牛に頼っていましたが、生産量の増加で運びきれなくなりました。たくさんの荷物を運ぶために桐生から足尾まで鉄道を建設することとになりました。1912年に足尾鉄道が足尾駅まで開通しました。その後、1918年、国が買い上げて後の国鉄の足尾線となりました。足尾銅山が閉山されると旅客・貨物が減り1985年までに廃止されることになりました。
しかし、沿線市民の間で足尾線を残そうという活動が起こり、1989年までJR足尾線として残りました。その後は第3セクターである「わたらせ渓谷鐵道株式会社」が路線を引継ぎ、現在に至っています。
わたらせ渓谷鐵道になってから貨物輸送に代わり観光客輸送に力を入れています。1998年にからは観光列車「トロッコわたらせ渓谷号」の運転も始まり、観光のお客に人気を博しています。
開業30周年の手ぬぐいです。
足尾砂防堰堤
「足尾砂防堰堤」のカードがあります。データとして、「利根川水系渡良瀬川、重力式コンクリートダム 高さ39メートル 設置者国土交通省 1950年着工 1955年完成」とあり、基本情報として「(略)昭和22年のカスリーン台風等の大災害により足尾砂防堰堤の必要性が認識され、急速に計画の具体化が進みました。(略)」と書かれています。こだわり情報には、「(略)日本一の規模を誇ります。平成初期に行われた第5次工事では、地場産業の足尾焼きの陶板2,000枚で近隣に出没するニホンカモシカの大きな壁画が描かれ、地域のモチーフとなっています。平成8年には、堰堤の下に銅(あかがね)親水公園が作られ、観光スポットになっています。公園内の足尾環境学習センターでは、足尾の歴史をはじめ、郊外や緑化事業の歴史などの写真資料が展示されています。」
足尾に関するカード「砂防堰堤・松木山腹工・星」
本校では、生活科や総合的な学習で砂防堰堤がある銅親水公園付近に出かけて学習をしています。
松木山腹工
5・6年生の総合では、足尾の環境問題について調べています。6月には植樹体験もしました。その後、「足尾に緑を育てる会」の会長さんにお話をお聴きしたり、資料を使って調べたりして、模造紙にまとめました。その作品が廊下に掲示してあります。
「松木山腹工」というカードをいただきました。表には写真、裏面にはデータや基本情報、こだわり情報が掲載されています。国土交通省が設置者で1987年に着工したそうです。基本情報には
「足尾地区はかつて銅の生産を中心に発展してきました。しかし、足尾銅山の煙害や木々の伐採、山火事により、次第に森林が消えてしまいました。足尾地区の砂防事業は下流への土砂流出を防ぐ砂防堰堤の整備を中心に進められてきましたが、土砂の供給源を絶たない限り、根本的な対策にはなりません。このため国土交通省では荒廃した斜面からの土砂の流出を防ぎ、失われた緑を復元する山腹工を実施しています。」と書かれています。
こだわり情報によると、「山腹工とは山の斜面崩壊を防ぐため、斜面を柵や壁で階段状に整備して斜面の崩れを抑える土留工(どどめこう)と、さらに土が流れないように草木を植える緑化工を行い、安定した山肌に戻す工事のことです。」と書かれています。
足尾の四季
先日、通洞駅で「鉄道唱歌足尾編」の看板を紹介しましたが、通洞駅には「足尾の四季」の歌詞もありました。
足尾銅山や庚申山を歌った曲は多いそうですが、詞や曲で優れているのは「足尾の四季」だと「足尾の文化財」(平成元年)にも紹介されています。
☆古河橋の「星カード」
「見上げてごらん 日光の星を」というタイトルの記事が11月30日の下野新聞で紹介されました。その後も読売新聞栃木版にも掲載されました。『冬季誘客へ「星カード」 3密に配慮、新事業 市観光協会』という見出しもついていて、5枚の「星カード」がカラーで掲載されていました。5枚のうち1枚が、「足尾古河橋」の星カードでした。
その星カードの表面には「渡良瀬川源流 1200年前と同じ星たち」と書かれています。裏面には「QRコードを読み込んで特別な星の物語を聞こう!」と書かれていて、カードの配布場所の地図が掲載されています。4年生が理科で星を学習するときに、足尾の歴史を見守ってきた星の物語を聴いてもらいたいと思っています。
古河橋の説明板には「古河橋は、明治中期までに架設された産業用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、足尾銅山の誇れる産業遺産である【略】」と書かれています。平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので歩道橋として残されたそうですが、現在は立入禁止になっています。
12月28日に撮影しました。
鉄道唱歌足尾編
わたらせ渓谷鐵道の通洞駅には、「鉄道唱歌足尾編」という説明板が日光市によって設置されています。その看板には、「’’汽笛一声新橋を..’’で知られるこの歌は、全国の風物を歌い込んだもので、その中に足尾の文句が7番もある。足尾が歌われたのは足尾線が足尾に敷かれた大正元年(1912年)以後であろう。」と書かれていて、31番から37番までが書かれています。(後日紹介します。)
先日来校した先生が駅に行かれて、「鉄道唱歌に足尾編がある」と教えてくださったので、さっそく行って見てきました。これから、鉄道の歴史についても調べて、ホームページで御紹介したいと考えています。足尾には調べると楽しい発見がたくさんあります。
発見!!足尾の戦国時代
ホールに「足尾地域を知ろう!」というコーナーを作りました。先週掲載した「二宮尊徳と足尾」と一緒に掲示しているのが、戦国時代の足尾についての資料です。
平成30年から日光市歴史民俗資料館では、足尾原村文書の調査をして、286点もの古文書を確認したそうです。その中に、新発見の戦国時代の古文書が含まれていたそうです。それらの資料から、下野国内外の有力者が足尾に注目していたことがうかがえるそうです。また、足尾には、戦国期の年号が入った仏像や石造物が残っているそうです。
足尾は、1610年に足尾銅山が発見され繁栄したと言われていますが、この発見により、銅山で繁栄する以前の戦国時代の足尾の姿が少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。(日光市歴史民俗資料館の令和二年度速報展の資料を参考)
伊達政宗が使用した「獅子の黒印」が押された古文書も見つかりました。4年生は、社会科見学でこれらの資料を見てきました。
二宮尊徳と足尾
先月、4年生が二宮尊徳記念館に見学に行ってきました。社会科で郷土の発展に尽くした「二宮尊徳」について学習しています。記念館発行の絵葉書には、足尾の「遠下」「原」「松木」「高原木」「神子内」の美しい風景があります。その絵葉書をぜひ他の学年にも見てもらいたくて、ホールに「足尾地域を知ろう」というコーナーを作って掲示しました。二宮尊徳が日光神領を「廻村(かいそん)」したときに、足尾にもやってきました。2回目の廻村は、鹿沼の古峰原から足尾を通り、清滝方面へというルートでした。記念館の資料を見ると、当時の足尾の14の村(赤沢・新梨子・遠下・原・唐風呂・中居・掛水・間藤・赤倉・久蔵・松木・仁田元・高原木・神子内)を廻ったそうです。
10月21日の風景
2階のベランダから渡良瀬川を見ると、少しずつ紅葉が始まっています。
太鼓活動の法被
9月3日の風景
最近の大雨により渡良瀬川が増水していました。
ガソリンカー
「ガソリンカー」は、鉱山と労働者の住宅地を結ぶ、「通勤の足」でした。銅山で使う資材も運んだそうです。大正末期から馬車軌道に代わる交通機関として登場したそうです。 歴史館前のスケートリンク場跡地を整備し、レールを集め、一周174メートルの線路が設置されています。毎月、第一土曜、日曜には、このガソリンカーを走らせているそうです。
昔の地図
大正5年(1930年)「足尾町商業案内便覧図」というタイトルが付いた地図です。裏面には、足尾町などのお店の名前などが印刷されています。
地図を見ると、狭い谷筋のわずかな平地に、選鉱場、精錬場、発電所、鐵道、策道などの鉱山施設や鉱山社宅、お店が立ち並び、町全体がひとつの工場のように見えます。今から90年前の足尾の様子がよくわかる貴重な地図です。
渡良瀬川
(国土交通省 渡良瀬川河川事務所の資料から)
渡良瀬川とその支流のほとんどは「皇海山(すかいさん)」を最高峰とする足尾山地から流れて出ています。渡良瀬川は、山地を小枝状に刻みつつ、谷や段丘を作りながら南西の方角に流れ、大間々から下流にかけては足尾山地と八王子山地のあいだを流れています。
かつて渡良瀬川は、「太日川(ふといがわ)」と呼ばれ、およそ1000年前には現在と違うルートを流れていました。
江戸時代になると徳川家康が埼玉平野の開発、舟運による東北地方との経済交流、江戸を守るための外堀を築くという施策を講じます。その開発の中で、1921年頃には利根川と太日川(渡良瀬川)を直結させる工事が行われました。これによって、現在の渡良瀬川は利根川最大の支流となりました。
足尾銅山⑤
新技術①鑿岩機(日本人の体格に合わせて小型化を図り、改良が続けられて現在も世界へ向けて製造・販売されています。)
新技術②水力発電(自社専用の水力発電所を始めて稼働させ、明治時代に足尾地区の十数カ所に水力発電所が建設されました。)
新技術③選鉱(日本初の機械選鉱で、鉱石の銅分を効率よく回収したそうです。)
新技術④運搬(洋式技術が導入され、トローリー式坑内電車を採用し、ガソリン自動車第一号が走ったのも足尾銅山でした。)
(「渡良瀬川と足尾山地」 国土交通省資料 より)
足尾銅山④
1610(慶長15)年、足尾村の2人の農民によって足尾銅山が発見され、江戸幕府の直営の銅山となりました。17世紀後半には、毎年1,000t以上の銅が生産され、幕府の財政を支えました。江戸城や日光東照宮の瓦を製造したり、オランダや中国へ輸出をしたりしました。1877(明治10)年、古川市兵衛により、最新の技術や設備により鉱山施設の近代化が進められました。明治20年代には国内で産出される銅の40%以上を産出する日本一の銅山となりました。
大正時代には、岩を砕くための足尾式さく岩機が考え出され、手で掘ることから機械で掘ることへと変わり、作業が早くできるようになりました。
足尾環境学習センター
環境学習センターは、平成12年に完成しました。足尾銅山の歴史を紹介するとともに、環境破壊と自然の大切さを学べる施設です。緑を失った足尾の山々や旧松木村などの歴史を写真や資料などで展示しています。
子供たちは地元に住んでいるので、地図を見て自分の家を探したり、知っている施設との位置関係を調べたりしていました。映像や説明を見て、今まで断片的だった知識が少しずつつながり、知らなかった歴史的事実を知ることができたと思います。
とちぎの百様(ひゃくさま)
百のうち足尾町にあるのは、29「足尾銅山」と93「わたらせ渓谷鐵道」の2つです。「足尾銅山」の感動ポイントには、「日本の近代化を支えた殖産興業(しょくさんこうぎょう)のシンボル」と書かれています。「わたらせ渓谷鐵道」の感動ポイントには、「トロッコ列車で渓谷(けいこく)のけしきを楽しむ」と書かれています。
どちらも足尾にとって大切なものです。ほかにも足尾には、伝統があり誇れるものがたくさんあります。これから、このページで紹介していきます。
玄関にある宝物
日足トンネルの長さは
選択肢は4つありますが、正解は2765メートルです。長いトンネルです。
足尾小学校の歴史③
学校に隣接して、足尾公民館がありますが、現在は一部を児童クラブが使用しているだけです。この敷地には、足尾高等女学校が建てられていた場所です。
足尾銅山物語③
順調に産出していた銅山にもかげりがみえ、銅のねだんが安く、山師という人たちを排除したため、一番とれたときからでは、十分の一にまで減ってしまいました。また、たびかさなる洪水で被害を受け、火事で1000件が焼けました。
幕府は、困っている山元を救うために「銭座」の許可をあたえ、「寛永通宝一文銭」というお金をつくりました。この一文銭の背面に「足」の字がしるされたことから「足字銭」といわれました。1742年~1747年の6年間に、約2億千万枚もつくりました。このような幕府の保護政策にもかかわらず、銅山はきゅうげきにおとろえて、1844年頃には休山じょうたいになってしまいました。「足尾博物誌」より簡略化
学校の近くにある記念碑「足字銭と鋳銭座跡」
足尾銅山物語②
幕府は、銅山奉行の代官所を設け、銅山を開発し、銅の精錬(せいれん)が行われていました。足尾の銅瓦は、江戸城、芝増上寺、日光東照宮などの建築にも使われました。
1649年、足尾銅を江戸まで運ぶために、銅山街道(あかがね街道)がもうけられました。このころは足尾銅山のもっともさかんなときでした。1676年からは、オランダや中国にも出荷していました。「足尾千軒」と言われるほど、多くの銅山関係の人が住んで、大変なにぎわいをみせていました。
校内にある「黄銅鉱」
足尾銅山物語①
「足尾銅山のはじまり」(小学高学年が読めるように簡略化)
江戸の初め、備前の国の農民が発見したとする「足尾銅山のはじまり」
足尾銅山は1610年に備前国(びぜん・岡山県)で生まれた足尾の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)の二人が渋川(しぶかわ)をさかのぼり、黒岩山に登って、銅を発見しました。江戸幕府は銅山を幕府が直接支配することにしました。黒岩山は、発見した2人の生まれた国の名前をつけて「備前楯山(びぜんたてやま)」としました。
しかし、それ以前から、足尾の銅がほられていたという記録はありました。
山の神と孝行猿
山ノ神 孝行猿
足尾の地名の由来
地名の由来として「ねずみの話」があります。むかし、「勝道上人(しょうどうしょうにん)」という僧侶が日光のお寺にいたとき、ある日1匹のねずみが粟(あわ)やひえの穂をくわえて、どこからともなくあらわれたり姿を消したりしたので、上人はこの山奥に、粟やひえの穂があるはずがないと不思議に思って、このねずみの足にひも【緒】(お)を結んで目印にして、そのあとをつけてみると、山のふもとの方に人家がありました。そこで上人はここを「足緒」と名付けたのが、のちに「足尾」となりました。上人はそのあたりは僧が修行をつむのに適している土地だと考えました。その後、上人の弟子たちがこの土地へ来て、修行をつんだり寺をたてたりしたのが足尾のおこりだと言われています。
一方、学問的には、地形的なことから山の高いところや山のふもとの延びたところを「尾」ということや山の峰(みね)つづきを尾根とよんだりすることから、この地名がつけられたのであろうとみられています。
足尾の近くに細尾(ほそお)や粕尾(かすお)としいう地名があるのも興味深いことです。また勝道上人とゆかりのあるねずみが入ったという「ほこら」が大黒橋のたもとにあり、現在は「波之利大黒天(はしりだんこくてん)」としてまつられています。 (2006年発行 「足尾」より)
足尾小学校の歴史②
足尾小学校の歴史①
「足尾町 閉町記念 足尾博物誌」より抜粋
学制発布の翌年の明治6年(1873)年8月、本妙寺を借用して足尾で初めての学校「足尾学舎」を開いたのが始まりで、創立当時の児童数は84名でした。その後、銅山の発展とともに児童数はうなぎのぼりに増え、大正末期から昭和30年代までの最盛期には1500~2000名を数えるマンモス校となりました。
マンモス校だった頃の足尾小学校