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校舎流失追悼式

校舎流失追悼式を実施しました。予定の日が臨時休業になってしまったので,数名の教員が代表として行ってきました。本来なら小中学生が2つの班に分かれて,お墓と追悼碑にお線香とお花を供えます。中宮祠小中学校では,ずっと続いている大切な行事です。
  

<資料> 
 明治35年(1902年)二荒山神社の境内の建物を借り,加藤嘉藤次先生を迎えて日光尋常高等小学校の中宮祠分教場が開校された。児童数20数名3クラスであった。          
 明治35年は8月中頃より毎日のように雨が降り続いた。9月27日(土)の夜,加藤先生の一家3人は「つたや」で風呂に入り,学校に帰った。翌28日(日)午前10時頃に「観音薙土石流」が起こり,校舎もろとも先生親子3人が湖水深く沈められた。区民一同,先生親子の遺体・その他を捜し求めたが9歳になる娘さんの下駄と赤い着物の切れ端が湖面に浮いただけであったという。区民一同の志で共同墓地に墓が建てられ,また,昭和58年(1983年)に分教場跡(二荒山神社境内)に追悼碑が建てられた。この観音薙土石流のあと,立木観音は歌ヶ浜の地へ移された。           
・1902年の天候                                            初夏から天候不順。真夏でも霜や冷たい雨。9月下旬,停滞する秋雨前線と,日本列島を西から東へ移動する弱い熱帯低気圧の影響で日光には相当量の雨が降り続いた。             さらに,沖縄近海を北上する熱帯低気圧が秋雨前線を刺激し,いっそう雨脚を強めた。9月28日の朝,台風が関東へ上陸,午前10時頃に足尾付近に到達。足尾付近の最大風速23m,24時間の雨量262ミリ。さらに,沖縄よりの熱帯低気圧が28日の午後,名古屋から北陸方面へ本州を縦断。日光市内~湯元間の大谷川にかかる橋で残ったのは大尻橋のみであった。(神橋も流失)